わかたけみかんばこ。2



「千癒、今日一人で帰れる?」

迎えの車がロータリーに滑り込んできたとき、若竹は隣に立つ幼馴染の少女にそう問いかけた。
視界を、ヘッドライトがまぶしく通り過ぎてゆく。
微塵の隙もない運転技術を誇るドライバーが静かな動きで車を横付けにするのを横目に、
千癒は若竹に向けた大きな瞳をきょとりと瞬かせた。

「何言ってんの兄貴、あたしは一人で帰れ……」

千癒とは逆側に立って不満そうに膨らませた頬を背けていた楓が
自分の方を向いてぎょっとした調子で叫びかけたのを、
「どう?」と千癒への静かな問いで遮った。
そして千癒の方を向いたまま、背を向けて走り出しかけた妹の足元に即座に左足を突っ込む。

「……っ!」

――目論見通りに若竹の足払いは成功して、前につんのめり掛けた妹の
腕を思い切り掴んで自分の方に引き寄せた。
勢いを駆って左腕の中に抱き込むと、瞬間の動揺から立ち直った楓がすぐさま怒気を帯びた言葉を放った。

「ばっ! このバカ兄貴、何すんのっ!」
「煩い。耳の近くで叫ぶな。自重しろ自重」
「兄貴が離せば良いだけでしょっ!」
「離したら逃げるだろうがお前。オノレの運動能力考えろ、俺が追いつけんだろうが」
「追いつかなくて良いよ千癒と帰んなさいよっ!」
「運転手つきの千癒と徒歩のお前と、現在時刻を考慮に入れて比べてみろ」
「あたしが一人なのは、ジェニーたちと一緒に帰るって言った止めた兄貴のせいでしょっ!」
「偶にはこんな時間まで生徒のお守しなきゃならんくなった気の毒なせーちゃんを気遣え。
送らなきゃならんのをジェニーだけにして、はよ彼女ンとこに帰してやろうという兄の崇高な意思を汲め」
「じゃあ、千癒と兄貴を二人にしてあげようっていう妹の心遣いも汲みなさいよっ!」
「それは兄の一存で却下する」
「お、横暴バカ兄貴っ!」 
「いちいち語尾にスタッカート付けなきゃ喋れんのか妹よ。
音楽の時間は大分前に終わってる。場所も考えろ、音量落とせ」

言われて我に返ったのか、楓はようやく静かになって、周囲を見回した。
そしてタクシー待ちをしている帰宅途中のサラリーマンらしい人々の好奇の視線を
一身に浴びていることを悟って沈黙を続行することに決めたらしい。
中には酔った頭に響くのか眉根を寄せている表情もあって、
腕の中でしゅんと大人しくなった楓に満足げに頷いていると、
くすくすという小さな笑い声が一気に静かになったロータリーに響いた。
鈴を震わせるようなその笑い声は、幼馴染みのものだ。
緩く波打つ髪を揺らして微笑む彼女――森繁千癒。
笑い声ひとつで、兄妹漫才に寄っていた視線を一気に自分のものにしてしまう。
そのまま周囲にひとつ会釈をすると、場の雰囲気が不意に緩んだ。
この辺りは、既に天性の才能だ。
決して目を奪われる華というわけではないが、人を和ませ安らがせる魅力。
――その傾向は、木森ちゆ名義での芸能活動にも現れている。

「うん、解った。私は大丈夫だよ、竹ちゃん」
「家に着いたらメール入れて? 眠くなったならそう言ってくれれば良いし」

後で連絡を入れるからと遠まわしに告げながら千癒の傍に一歩近づいた。
妹を抱えた左腕が若干抵抗する気配を見せたが、今は思い切り黙殺だ。
さりげなく周囲の視線から庇う位置に立って前髪に手を伸ばす。
ロックバンドのライブの後だというのに、ふわりとした印象を維持したままの彼女の髪。
そのままかき混ぜるように頭を撫でる。
30センチを越える身長差は、稀にもどかしく感じることがあるものの、こういうときにはとても便利だった。
幼馴染の域を若干超え気味の若竹の手のひらを、微笑んで首を傾げ受け容れる千癒。
直ぐに手を離すと、機を見計らって扉の開けられた後部座席に送り出した。

「じゃ、おやすみね、楓ちゃん。竹ちゃんも、ひとまず」
「気をつけてな」
「……おやすみ」

ぱたんと軽い音を残して扉が閉まると、席に座って手を振る千癒を乗せた車はスムーズな動きで発進して行った。
そのテールランプを見送る視界の中、一度だけハザードが点滅する。
明らかに残された自分たちへの合図だと知れて若竹は微笑んだ。
運転手か、それとも千癒が彼にねだったのか、果たしてどっちだろう。
後で聞いてみるかと思いながら夜の街並みの中に消えていった車を見送っていると、腕の中でもぞもぞと動きがあった。

「……いい加減に離してよ、兄貴。っていうか、後引くんなら一緒に行けばよかったのに」
「余韻の大事さっつーもんをお前はちょっと知っとけ。逃げない、走らない、叫ばない。約束出来るか?」
「…………。解ったわよ、するから」




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